大分建設新聞

四方山

記者の魂

2024年03月11日
 玄人好みの話かもしれない。堀内伝右衛門。江戸時代初期、熊本細川藩に勤めていた侍である。「堀内伝右衛門覚書」という記録を残したことで後世に名を残した。彼は何をしたのか▼元禄15(1702)年赤穂浪士の吉良邸討ち入り後、四十七士は泉岳寺近くの大名屋敷に預けられ、49日間幕府の裁定を待った。細川藩も17人を預かり、その接待役の一人に選ばれたのが堀内伝右衛門である。上司から「親しくしないように」と厳命されたが、彼は浪士たちの忠義の決行を武士の鑑と感銘し、浪士個々に聞き取りを始める▼浪士の多くは下級武士。上級の者はみんな逃げた。だから切腹の作法を知らない者もいた。「心配ない、首を差し出せば終わる」と仲間が笑い、みんなが大笑いする。その姿に堀内は歯を食いしばって涙をこらえる。彼のひたすら誠実な聞き取りに浪士たちは正直に答え、彼らの言葉をそのまま、一切飾らず素直に書き留めていく堀内▼現在、当時の赤穂事件を知る第一級資料として高く評価されているのは、彼の見たまま聞いたままを誇張なく綴る「記者」に徹した記録のおかげと、歴史の専門家たちはたたえる。ろくに取材もせずに記事を書く記者、それどころかフェイクニュースを堂々と報道する最近のジャーナリズムの横行を眺めるにつけ、爪のあかでも煎じて飲ませたい堀内のスピリットだ。彼は浪士の心境だけでなく、彼らの身内を訪ねて手紙や形見を渡したりもしている▼しかし彼の行為は、裏返せば極めて危険な振る舞いだった。細川藩主も個人的な心境は別にして、公儀の足元で凶刃をふるった大罪人の浪士を許せるわけがない。そんな空気の中で堀内だけは藩の〝不忠者〟の道を選んだ。絶対権力に抗う堀内の姿は武士ではなく、記者の鑑である。(あ)
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