大分建設新聞

四方山

来年は選挙の合戦

2022年11月18日
 12日に大分市中戸次の大南大橋下にある大野川河川敷で「大野川合戦まつり」が開かれた。乱世の時代を実感できるお祭りに県内外から多くの人でにぎわった。いつの世も、長年の平和を愛する半面「戦乱の世」に非常に興味を持つ人が多い▼話は遡ること435年前、天正14(1587)年4月5日、豊後の大友宗麟は豊臣秀吉に大坂で面会し、現在の鹿児島県を中心とする島津勢が豊後に侵略してきたことを訴え救援を求めた。秀吉はこれを了承し黒田孝高に毛利の兵を統括させて先発させ、続く讃岐(現在の香川県)の仙石秀久を主将に長宗我部元親・信親父子を加えて豊後に出陣を命じた▼戸次川(大野川)の戦いは、天正14(1587)年12月12日に島津家久率いる島津勢と、長宗我部元親・信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保らが率いる豊臣勢の間で行われた合戦。豊後に侵攻した島津家久は大友氏の鶴ヶ城を攻撃し、12月11日に仙石や信親らはこれを救援しようと戸次川の左岸に陣を敷いた▼戦略会議で豊臣氏の軍監であった仙石は川を渡り攻撃すべきと主張したが、元親は援軍を待った後に合戦に及ぶべきとして仙石の作戦に反対した。しかし、仙石は鶴ヶ城を救うことが最優先と聞き入れず十河も仙石の主張に同調した。このため渡河して出陣することになった。12日夕方から13日にかけて行われた合戦で、先陣の仙石は不意を突かれて敗走、元親は戦場を離脱、信親は中津留川原で戦うが討たれて戦死、享年22。十河も戦死して鶴ヶ城も落城した。この合戦は九州平定の諸戦で豊臣勢が敗退した▼戦場では、敵味方の陣営、双方の動きを知る情報戦であり情報が勝敗を分けることになる。来年4月の選挙に向けた「豊後の合戦」が始まろうとしているが、ここでも戦術の判断が勝敗を分ける。(勇)
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