大分建設新聞

四方山

子規

2022年10月18日
 猛暑の日々は過ぎ去り、日ごとに秋の気配が深まろうとしている。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。そんな名句が口をついて出る季節でもある。正岡子規が大和路で詠んだのは1895(明治28)年10月28日のことだと伝わる。子規、28歳。腰痛に悩まされながらの旅だった。病魔はすでに脊髄をむしばんでいた▼その後7年にわたる闘病生活が始まった。子規を苦しめたのは、不治の病と恐れられた結核だった。晩年は随筆集『病牀六尺』の名の通り、寝たきりの生活になり、布団の中が唯一の「世界」となった。病に伏せてからその感性は一段と磨かれ、短歌の革新運動にも力を注いだ▼結核に倒れた文学者は枚挙にいとまがない。樋口一葉、石川啄木、森鷗外、宮沢賢治…。竹田市ゆかりの音楽家、滝廉太郎もまた、結核のため23歳で生涯を閉じた。1943年には17万人が結核で死んだ。国民病と呼ばれたゆえんだ。それがようやく10万人当たりの罹患率が9・2人と10人を下回った▼世界保健機関(WHO)の分類に照らせば、「蔓延国」から「低蔓延国」の悲願の仲間入りを果たした。今年は子規の没後120年に当たる。当時から政府が結核対策に力を注いできたことを思えば、まさに世紀を超えての結核という感染症との戦いだった。だが、10万人当たりの新規患者数は米国3人、ドイツ5・8人にとどまっており、欧米と肩を並べるまでの道のりはまだ遠い▼そして、今では新型コロナウイルスという感染症との戦いが繰り広げられている。WHOのテドロス事務局長は「パンデミックの終わりが見えてきた」と宣言した。一方で、政府対策分科会の尾身茂会長は「第8波は第7波以上の高い波になると言われている」と警告する。インフルエンザの季節が迫るなか、用心するに越したことはない。(熊)
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