大分建設新聞

インタビュー

首藤 栄治さん(ピーエム工業会長)

2014年12月10日
 ピーエム工業㈱(大分市)の首藤栄治さんは、昨年、30代の男性社員を新社長に抜擢、自分は代表取締役会長に就いた。何度も直面した試練の場を、負けん気の強さで乗り越えたのは、実業家だった祖父にあこがれ「将来は、絶対実業家になる」と心に決めていたからだ。その歩みを聞いた。
 農家の長男で、農業を継ぐのが当たり前。それが嫌だった。農業高校への進学に〝抵抗〟し、大分舞鶴高校に進んだが、担任に「このままでは就職も難しい」と、けんか早さを買われ、2年生になると半ば強制的にラグビー部に入らされた。すぐに頭角を現しレギュラーに。
 高校卒業後は、大手鉄鋼メーカーに就職。しかし、学歴の差を思い知らされた。そこで、仕事を続けながら大学入学を目指し必死に勉強した。現役で早稲田大学に入った同級生が、ラグビー部の監督に推薦してくれた。しかし、結果的に一浪になることから、「同級生を先輩として、〝さん付け〟では意地でも呼べない」と、早稲田はやめにして、当時、ラグビー部強化を進めていた東洋大学に入学した。「もう後戻りはできない」と、上下関係の厳しさに耐えながら、ラガーマンとして活躍した。
 レベルの高い大学は、上級生が抜けた翌年も、同じように高レベルの選手がはい上がってくる。「そんな集団の中で鍛え上げられた技術は、下級生らに脈々と受け継がれていく」と。自らも大きく成長した。
 大学を卒業、いったん地元企業に就職したものの、ショーボンド建設㈱(東京都)に転職し、自分の可能性を試した。営業で入社したが、体格と根性を見込まれ工事課へ。九州各地や関西の橋梁床板補修・補強現場に出て、実績を積んだ。
 30歳で脱サラして、ピーエム工業を設立。その6年後に元請けもできる体制に移行し、実業家としての道を歩み始めた。これまで手がけた工事で忘れられないのは、耶馬溪の石橋の修繕(平成11年)。全国最大級でありながら大型車も通れる歴史的な石橋で、「機能を保ちつつ、建設当初の趣に戻してほしい」というニーズに応えるため、設計だけで2年かけ、会社の総力を結集してやりとげた。
 かつて、今は英会話教室を開いている三女を、大分工業高校に通わせた。首藤さんは、そこでPTA会長になり、学校に人脈ができ、その後、3人の男子高卒者を入社させた。そのうちの一人が、現社長。「社長が誰だろうと、技術力の無い会社は生き残れない。経営力は技術力だ」と言い切る。骨太の会社を目指し、若手の人材育成に余念がない。


「技術力のない会社は生き残れない」と話す首藤さん
取材依頼はこちら
環境測定センター
arrow_drop_up
TOP